ちゃんと聞こえてるよ。 君の音も 君の声も・・・・―― poco a poco 放課後、練習室でぼんやりしていたらいつの間にか眠っていたらしい。 ふと、低い柔らかい音で目が覚めた。 何の音かはすぐにわかった。 チェロの音だ。 香穂子のいる練習室に彼女がいるにもかかわらず入ってこられるチェリストなんて一人しかいない。 だから香穂子は眠ってるふりを続けつつ、細く目を開ける。 (あ、やっぱり志水君だ。) 思った通り、香穂子と対極の練習室の隅で香穂子を右手方向に座ってチェロを奏でているのは、香穂子の年下の恋人、志水桂一だった。 見るからに柔らかそうな髪がふんわりと目の方へかかって、表情はよく見えないけれど一生懸命弓を動かしている姿に香穂子は気づかれないように少しだけ唇を笑みの形に変える。 ふと、学内コンクールが終わった後、香穂子と志水が恋人になったと知った天羽の言葉を思い出す。 『志水君、天然だし、何考えているかわかんないし、香穂子も苦労しそうだね〜』 面白がっている言葉の中に、一欠片本気の心配が混ざっている事に気が付いてあの時は笑ってしまった。 (そしたら天羽ちゃん、怒っちゃったんだよね。) 『なによ。じゃあ、香穂子なら志水君が何考えてるかわかるっていうわけ?』 口を尖らせてそう言う天羽に、香穂子は笑ったまま答えた。 『わかるよ。志水君が伝えようとしてくれる事はね。』 我ながら謎めいた言い方だったかな、と今でも思うけれどその通りなのだからしょうがない。 不意に、チェロの音が止まって志水がこっちを見た。 慌てて香穂子は何事もなかったように薄目を瞑る。 そのまま、数秒。 すぐに曲が再開された。 それを確認してまたゆっくり目を開けると、再び志水が楽譜に向かって弓を動かしている姿が映った。 他の人が見たらきっと、さっきと変わらなく写っただろう姿。 でも香穂子は気が付いた。 さっきより、ほんの少しだけ表情がさえない。 (私が起きなくてがっかりしたの、かな。) そう思ったら危うく笑いそうになってなんとか堪えた。 (なんでみんなわからないのかなあ。) 香穂子にはごく自然に感じ取れる志水の考えている事。 香穂子の膝にかけられた音楽科のブレザーや、チェロに付けてある弱音器は彼の優しさ。 そして寝ている香穂子を起こさないように・・・・でもほんの少し起きて欲しいと思いながら奏でているだろう旋律の中には。 (私・・・・自惚れてるかな。) でも、きっと間違っていない。 この曲が奏でる想いは・・・・。 その時、唐突に曲が途切れた。 そして目を閉じた香穂子の耳に、チェロを椅子に立てかける音と、床を踏む足音が聞こえて。 「先輩」 明らかに眠っている人間にかける声ではない事には気が付いていたけれど、あえて知らん顔を決め込む。 と、急に気配が近づいて額に暖かい感触。 「聞こえてるんでしょ、先輩。」 「・・・・ばれてた?」 さすがにそれ以上しらを切り通せる自信はなくて香穂子は目を開けて悪戯っぽく微笑んで見せた。 すると目の前の志水も柔らかく微笑む。 「はい。さっき起きたでしょう?」 「なんだ〜。せっかくもう少しは志水君が弾いてくれた『私のための』音楽、聴いていたかったのに。」 「え・・・・?」 驚いたように目を見開く志水に香穂子は少し苦笑する。 (志水君の場合、人だけじゃなくて自分も自分の考えが人に通じるって思ってないんだよね。) だからいつも香穂子に何か伝えようとする時でも不安そうな事を知っている。 だから香穂子もほんの少しだけ先回りしてあげる。 今回もそれは香穂子の自惚れではなかったらしく、顔を赤くして志水は香穂子を見た。 「なんで・・・・先輩はわかるんですか?」 「ん?」 「僕が、先輩を想って弾いてたって・・・・。それだけじゃなく、いつも、なんで言葉にしなくてもわかってくれるんですか。」 「ん〜」 答えようとして、香穂子も言葉に詰まる。 実のところ、なんでなんてわからない。 わかるものは、わかってしまうのだ。 あえて言うとしたらそれは、きっと。 「愛、かな。」 「愛、ですか。」 真面目な顔で志水が首をかしげるので、香穂子は想わず吹き出した。 「し、志水君。そんな真面目に・・・・」 「いいえ。他の人にはわからなくて香穂先輩にだけわかるとしたら、本当にそうなんです。それに・・・・その方が僕は嬉しいです。」 小首をかしげて照れたように言うその顔は紛れもなく可愛いんだけど。 すぐに眉を寄せてちょっと考え込む。 「あ・・・・でも、それじゃ香穂先輩の気持ちの方が、僕の気持ちより強いことになっちゃいますね。それはちょっと・・・・悔しい。」 「悔しいかな。」 「悔しいです。僕は香穂先輩の気持ちがなかなかわからなくて、いつもドキドキさせられるのに・・・・」 (や、別にドキドキしないわけじゃないんだけどね。) 今だって、さりげなく近くにいて、さりげなく肩を押さえるような格好で覗き込まれていて心臓がものすごく落ち着かないんだけど。 という心の中はナイショにしておくことにして、香穂子はにっこり笑った。 「じゃあ、私の考えてる事がわかるくらい好きになってみるっていうのは、どう?」 「そう、ですね。はい。頑張ってみます。」 冗談に、真面目な返事。 香穂子の読みではこれで会話は一段落 ―― のはずだった。 しかし志水の腕は香穂子の肩から離れる事はなく。 ごく自然な動作で寄せられた唇は、香穂子が目を閉じる間もなく彼女の唇を塞いですぐに離れる。 そして呆気にとられている香穂子を見て、志水は香穂子が今まで見たこともないような笑顔で言った。 「先輩、今、驚いたでしょう?」 「え、あ」 反射的に「当たり前」と返そうとして、その瞬間さっきなにをされたかを理解する。 途端にかあっと頬が赤くなる。 「し、し、し、志水君!?」 「あ・・・照れてますか?そうか。こうするとわかるようになるのかも・・・・」 「な、何言ってるの!」 「だから、先輩の事、わかるようになりたいんです。」 「え?いや、そういう事じゃなくて・・・・???」 完全に混乱している香穂子に、志水はそっと触れて言った。 「僕は先輩に負けないぐらい先輩を好きでいたいし・・・・それに、先輩にはもっと僕を好きになって欲しいですから。だから、時々は予想外の事をしてまだ「わからない」って思ってもらわないといけない、ですよね。」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 (・・・・前言撤回) 香穂子はとうとう顔を両手で覆った。 自分でもしっかりわかるぐらい、頬が熱い。 (まだまだ私のわからないところが志水君には沢山あるみたい。) 例えば、こんな意外にも大胆で悪戯なところがあったとか。 はあ、とため息をついて香穂子は笑った。 (でも、わかっていくのは楽しいし、嬉しいから、いいよね。) そう思いながら、香穂子は少しだけ上目遣いに志水を見て言ったのだった。 「できれば心臓に優しい『予想外』でお願い。」 「・・・・考慮します。」 ちゃんと聞こえてるよ。 君の音も 君の声も・・・・ だけど、もっともっと知りたいから。 君の音も 貴女の声も もっと、もっと聴かせて下さい・・・・―― 〜 END 〜 |